とあるいち聖書ライターのブログ

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救護のプロ

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「 救いはユダヤ人からでるのですから、私たちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。 しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。
今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。
 神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」
(ヨハネによる福音書4:22~24)


 救護と言えばどのようなことを思い浮かべるでしょうか?
 まず、夏の時期の救護では水難事故などが多いものです。また、地震などで倒壊し、孤立した地域にも救護は必要です。そして、冬の山での遭難事故などもあります。
 いずれにせよ、救護の基礎知識を知って、災害に備えることは必要に思えます。
今年の梅雨の時期に、あるクリスチャン新聞は水難事故に対する心構えを掲載していました。
まず、川の濁流に飲まれ溺れかけたり、海で溺れかけたりした時には、「浮いて救護がくるのを待つ」ことが大切だと言います。それは、余計に自分で何とかしようともがけばもがくほど、泳ぎのできない人の場合などは特に、溺れ深みにはまって行くことが考えられるからでしょう。
 しかし、私が思うのは、救護隊がそこにいるなら、一刻も早く船を出し、浮くための道具を投げてやることが先決かと思わされました。救護できない人々でも、浮いている道具を差し出し救護に当たることはできるのです。 今の時代、この世の中の荒波で溺れたような生き方をしている人々は数多いものです。「浮いて待つ」知恵のない者は、皆、命を落としてもやむを得ないと思うでしょうか? 救える可能性のある命の場合、様々なパターンや救護のバリエーションを知って入れば、助かる命は多いものです。そこに船があるのに、遭難者に「浮いて待つ」知恵がないため、船を差し出さないとなれば問題です。ですから、救護には一刻を争う場合がほとんどなのです。時間の猶予の無い中で、どれだけ冷静にベストな選択の救護をすることができるかで、救われる命もあるということです。
 聖書のヨハネ黙示録では、教会は燭台にたとえられたりします。海で言えば船の航路を示す、灯台であり、暗闇の山中で言えば道を照らす懐中電灯であり、方位磁針の効かない夜の場所では人々に方向を示す北極星のようなものです。


 ですから、毎週、教会に礼拝に通うということは、メッセージから、生活に活かせる心構えやヒントを得て、それを使信に一週間無事に過ごせる人生を導く、道しるべともなる役割があるのが教会です。教会はギリシャ語でエクレシアと言います。これは、「召し出された者」という意味があります。つまり、神様に選ばれた器ということです。この世から見捨てられたような者が集まるような場所でもありますが、それ以上に、いやそれゆえに神様はそのような存在を、家を建てるための礎とするように選ばれた器としてお用いになるのです。
 弱い人は、弱いからこそ神の御前にへりくだることができるのです。神の御前にへりくだることのできる人は、どんな人にも謙虚であるものです。ですから、そのような人々が集まることにより、キリストのボディとしての教会の役割を担えるわけです。
素直な人はウソは尽きません。教会では嘘偽りは律法で禁じられていることでもあります。
クリスチャンと言えどウソをつくこともあるかもしれません。しかし、礼拝の時だけは真心をもって真の礼拝者として礼拝する必要があるのです。それが、真の礼拝者として、神の求める礼拝者のあるべき姿であり、神による人々の魂と霊の救護の業を可能にするキリストの御業と恵みがそこにはあるのです。






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