とあるいち聖書ライターのブログ

聖書からヒントを得て

先入観にとらわれない聖書解釈のもと、

聖書に興味がある方に見てもらうためのブログ

開拓伝導の真意

開拓伝導の真意



「 「皆さん、またイスラエルのすべての人々も、よく知ってください。この人が直って、あなたがたの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけ、神が死者の中からよみがえらせた
ナザレ人イエス・キリストの御名によるのです。
 『 あなたがた家を建てる者たちに捨てられた石が、礎の石となった。』というのはこの方のことです。
この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、
私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」
 彼らはペテロとヨハネの大胆さを見、またふたりが無学な、普通の人であるのを知って驚いたが、
ふたりがイエスとともにいたのだ、ということがわかって来た。」
(使途の働き4:10~12)


 現在の世界は混とんとしています。私は、世界が混沌とし平和でなくなる理由は、純粋なキリスト信者の減少にあると考えています。純粋なキリスト信者とは、自らの利得以上に神に対する信仰や世界の救いのことを考えていると私は考えています。しかし、あらゆる宗教があるこの世界では、その宗教界の派閥による争いや、その宗教界の存続のために、宗教戦争のようなものが発生したりしているという悲しい現状があったりするのです。
 現在のキリスト教会の献身者たちも同じように、神の御救いのため世の中に尽くしてきたにも関わらず迫害にさらされている人々は多いものでしょう。 その迫害がもたらす結果は、世界の教会と繋がりがあればあるほど、今のキリスト教会の献身者たちは、自分たちが迫害され続けたら、信徒の生活や、信徒の命を犠牲にしようと考える人々が多くなっている現状は少なからず存在するのです。なぜなら、彼らは、世界全体のために、自分自身の存在が信徒を犠牲にしても必要と考えている人が多いからかもしれません。だから信徒は怯えるように牧師を神のように崇める場合があるのです。キリスト教会の献身者たちへの迫害が一人の平和を生み出す純真なキリスト信者の生活や命を奪うということがあるのです。
 つまり、今のキリスト教会の献身者たちの多くは、イエスの犠牲があったから、キリスト教会は拡大したと考えている場合があるのです。同じように、キリスト信者も犠牲の数だけ大きくなるという考えが少なからず存在しているのです。確かにそれも一理あるかもしれません。 しかし、実際には、逆にイエス・キリストの犠牲が当時ローマ帝国が支配する世界の平和の安泰を余計に阻んだという事実があったから、当時のローマ帝国はキリスト教国家と変貌したということが考えられるのです。
 今現在も世界中に神の福音を宣べ伝えるために、あらゆる教会が世界に開拓伝導をしている状態があるのです。 お隣の韓国にしても国民の約半分近くはキリスト信者が増加したと言います。
 韓国のみならず、世界各国の治安回復と利便性の進む経済成長にしてみても、キリスト教会の拡大が大きく影響していることは少なからずあるでしょう。なぜなら、自らの利得のみを考える人々が多い社会には、あらゆる紛争や争いごと、治安の悪化が存在していると言えるのです。かえって、聖書の教えは自らの利得を考えないという奉仕の精神を教えている部分があるのです。
 ただ、最近のキリスト教会は、その存続のために自ら属する教会の利益のみを考えて敷居の高い教会が増えてきていると言えます。だから、世界の治安が悪くなるということは、自らの利得のみを考える人々が増えてきていると言えるのです。それは、純粋なキリスト信者が集うキリスト教会への迫害が強まってきている証拠でもあると言えます。 もし、キリスト教会の弱い立場の人々を迫害したり、命を奪い続けてきた場合、世界は明らかに問題が増え、犠牲の分だけ大きな戦争へと向かう可能性は高いと言えるでしょう。世界の混沌の理由はキリスト教徒への迫害による、純粋なキリスト信者の激減にあると言えるからです。
 その大きな戦争を願えば、確かにその願いは叶いやすいのかもしれません。なぜなら、平和を創り出すのは困難ですが、弱いキリスト信者の命を奪うことは簡単だからです。
 なぜ、キリスト教会の弱い立場の人々が犠牲になれば、大きな戦争へと発展するリスクが高まるかと言えば、それは弱い立場のキリスト者ほど平和を願っている人々が多かったりするからです。   
 また、それなりに平和を考えきたというよりは、そのキリスト信者に投資してきた人々の存在の部分が大きいと言えるのです。つまり、何の計画もなしに人はキリスト信者にはなりません。あらゆる人々の祈りと想いによってキリスト教会へと足を運ぶキリスト信者は誕生するのです。 つまり、その弱い立場のキリスト信者が犠牲になるということは、資産のある強い影響力をもった人々の注いだおカネと努力と祈りが無駄になると言えるのです。すると取り戻せない過去に対して、怒りと憎しみが湧きます。平和と経済成長のために大切に育てた人材を犠牲にされるなら、新たな投資を一から考えるか、その復讐をして見せしめを作らねばならなくなるのです。 そこで、戦争が起こるのです。 
 キリスト信者の弱い立場の人々の場合、神を信じるように人を信じやすい傾向がある分だけ、人を利用してきたような部分はありますが、実際には、そのように人を信じる人々の上に経済は成り立っているということを資産のある人々も知っているのです。
 おカネで買えない信用のためおカネ以上のものを投資してきたというわけです。
 裕福な人々も人間であり、絆が壊されたらそれなりのことを考えねばならなくなると言えるのです。
 裕福な人も身の安全は信用でしか得られないことを知っています。
 おカネはあくまで手段でしかないのです。ですからおカネで通用しない相手にはおカネ以上のものを与えることで信用を得ようとします。しかし、それでも通用しない場合、切り捨てなければならなくなるのです。なぜなら信じてはもらえないからです。すると、その投資しようとした弱い立場の人々への周りの影響が強いことを資産のある人たちも知るのです。そこで、周りへ投資した方が早いと気づくのです。しかし、それでも、本当に富裕層が投資したかった相手から信用を得られなかったり、犠牲にされたりすると、逆に周りに利用されていたと知り、自ずと投資を辞めるか、そこに復讐するしかなくなるのです。
 そうやって、国際社会を信じられない傾向が強い国が孤立するようにして、その地域もあらゆる紛争へと発展する場合があると言えるのです。
 何もキリスト信者の富裕層のみがその地域に投資しているわけではありませんが、世界のあらゆる貧困や紛争問題、社会問題のある地域へのキリスト教会の開拓伝導の場合、多くの人々の平和と救いを願う祈りと献金によって支えられているのです。
 ですから、一人のキリスト信者の弱い存在の犠牲が大きな憎しみとなり分裂や紛争へとつながる場合が多いと言えるのです。
 キリスト信者の中では聖書がすべてと思っている人々も多いものですが、実際には祈りの力が強いのです。どんなキリスト信者でも祈りが答えられる以上に、その祈りの想いを無駄にされたときのショックは大きいことでしょう。 また、聖書の教えでは、「弱いところがかえってなくてはならない」とか「私たちは一人一人それぞれ、キリストの体のあゆる一つ一つの器官」と教えています。その教えを信じる者にとっては、弱い立場の人に限らず、全ての人々の救いを大切にしているのです。
 このようにして、人間社会は人々の祈りと想いによって大きく左右されると言えるのです。何も、開拓伝導が全てだと言っているわけではなく、宗教界のみならず、あらゆる人々に言えることは、平和なうちは、その良さに鈍感なものですが、いざ戦争となれば、その快適な暮らしはたとえ裕福であったとしても保障されるとは限らないのです。人々の信用の上に平和は成り立っていることを忘れたくはないものです。

受けている影響=出る答え

受けている影響=出る答え



「 見よ。良い知らせを伝える者、平和を告げ知らせる者の足が山々の上にある。」
(ナホム書1:15)


 人は受けている影響や受けてきた影響が現実の答えとなって出るものです。
また、与えてきたもので、出る答えもあります。
 自分のために何かをしてもらったという経験がほとんどない人の場合、誰か他者のために何かをしてあげたいとも思わない場合がほとんどなのです。
 ですから、過去に経験してきたことや今現在経験していることが、その人の将来の人生を形作ると言えるです。
 人は受けてきた教育や経験によってそれなりの答えがその将来には出るものです。
その人、本人が本当に求めているものや事柄を与えられて来なかった場合、また求めていないものを与え続けられてきた場合、その人は他者の求めていないものを与える人になることでしょう。
 答えを2にしたい場合、1に1を足さねばなりません。1∔2では答えは3になるのは当然です。
このように、あらゆる難問でも、その難問を解くに必要な知識や倫理、知恵を当てはめれば、必ず導き出したい答えは出るものなのです。
 ビジネスにしても、世間の隠れたニーズをよく熟知している人の場合、まだ、他社が見出していない、世間が本当に求めている答えである供給を導き出すことができると考えられるのです。


 これは、何もビジネスのみに限ったことではなく、あらゆる交渉事にも当てはめることができます。
たとえば、自殺を考えている人に、自殺を思いとどまらせるためには、その人が自殺を辞める言葉かけをしなければなりません。それには、その本人にとって最も必要な適した言葉が必要だったりします。
 同じように、世界にあるあらゆる問題を解決するヒントは、世界の人々が本当に求めている答えに必要な知識や論理、知恵を当てはめなければ、目的の答えを導きだすことはできないのです。


 一つのリンゴが地に落ちるのを見て、万有引力の法則を知ったニュートンにしても、その一つの落ちるという答えが初めにあって、疑問が浮かんだのです。そこに、それを証明する倫理と知識と知恵を当てはめて、初めて、地球には引力が働いているという万有引力の法則を発見し証明することができたのです。
 ですから意外にも難問を解くヒントの答えはすでにすぐそばにある場合が多いのかもしれません。その答えからヒントを得て、あらゆる問題を解くヒントに応用できる場合があるのでしょう。
 聖書は、答えが書かれた書物です。それを証明することは難しく、あらゆる聖書学者や献身者たちがその答えを証明するべく、メッセージをしていたりするのです。その神という主人公が登場する聖書を解くには、それが答えだと信じる信仰がなければ、聖書の信憑性を証明することは不可能でしょう。
 このように、人々は生きる上では答えが必要だったりします。しかし、多くの人の場合、自分自身が本当に求めているものの答えを知らない場合が多く、たとえその人自身が求めている答えを知っていても、その答えを受けることができない場合が多かったりするのです。
 それは、先ほど話したように、その答えを導き出すために必要な、知識や倫理、そして、それに必要な何かが欠けている場合が多いのかもしれません。

もたらす影響

もたらす影響


「 『 人の子よ。国が、不信に不信を重ねてわたしに罪を犯し、そのためわたしがその国に手を伸ばし、
そこのパンのたくわえをなくし、その国にききんを送り、人間や獣をそこから断ち滅ぼすなら、
 たとい、そこに、ノアとダニエルとヨブの、これら三人の者がいても、
彼らは自分たちの義によって自分たちのいのちを救い出すだけだ。』 」
(エゼキエル書14:13~14)


 人の「もたらす影響」について考えてみたいと思います。多くの人は、他者から受けてきた影響の大きさによって人格形成されるということが言えます。
 ですから、治安の悪かった地域には教育が必要であると考える人は多いものです。
 今の教会や心理学では、人の人格形成は3歳頃までに親や家族などから受けてきた影響によって形成されることが多いと言います。ですから、いかに幼子を大切に育てることが重要なのかということが言えます。
 また、不幸な中で育ってきた人は他者を不幸にすることをなんとも思わないことが多いことでしょう。逆に幸せな家庭に育ってきた人は、幸せな家庭を作りたいとか、他者を幸せにすることに人生の意味を見出すのかもしれません。
 人は受けてきた影響、受けていることを、他者に与えるように出来ているということが言えます。
なぜなら、受けていることを現実に周りにもたらすということが自分を発散する方法ということが言えるのです。
 たとえば、口論がもとで起こる喧嘩などを考えてみましょう。自分の意見が通らないことや、自分自身が非難されることを良くは思わないために、喧嘩というものは生まれてきます。つまり、傷つけている相手に対して満足しないために、互いに傷つけようとするから喧嘩という状態になるのです。また学校などで、虐めを受けてきた場合、他者の誰かにその虐められている人は、発散しようとする性質があると言えます。つまり、虐めとはいじめられっ子が生み出す傾向があると言えるのです。  私は、幼いころ兄に虐められている時期がありました。しかし、その虐められている時に、やり場のない怒りからたまたま家に湧き出ていた蟻がいたため、その蟻たちを集めて、瓶の中に入れて窒息死させるということを見て、発散している自分がいたのです。
 誰かに現在進行形で虐められている人の場合、現在進行形で誰かを虐めているという場合が多いのです。 聖書では、イエス・キリストは人々を病から癒したりして多くの奇跡を行い救いに導いてきました。しかし、イエス・キリストは、その存在を良くは思わない人々の手によって十字架刑に処されて命を落とします。これは、虐められても虐めることなく、最後まで耐え忍んだ救い主の姿があったのです。
 普通の人は、虐められるとその反動から憎しみをもったり、誰かにその仕返しをしようと考えます。
しかし、天の御国を信じる人の場合は、この世の成功以上に、天に宝を積むことに価値を見出すということが言えます。それが、犠牲愛をもっている神の性質であり、神の御心であると信じているからです。 
 しかし、そのような正しい人が存在しても、旧約聖書では、神は飢饉など災いの時は、その正しい人だけが生き延び、不信の罪に陥った人たちは滅びると記されているのです。
 聖書が言っていることが本当なら、天災の多い地域は、そこに数々の不信があるということが言えるのかもしれません。
 私たちは、生きる上では幸せになりたいと誰もが願うことでしょう。しかし、幸せとは決して自分よがりには生み出せないものだと私は思います。それは、人の世は一人自分勝手には生きてはいけないように出来ているのです。たとえ、自分勝手自己中心に幸せを感じている人が存在したとしても、そのような人は、その人とつながりのある弱い立場の誰かが、必ず犠牲になっているということが言えるのです。その人に直接害を与えきれない代わりに、誰かが身代わりとなっている現実は少なからず存在しているということが言えるでしょう。
 人によって幸福の価値観は様々かもしれませんが、私たちの平和は必ず誰か他者の支えによって成り立っているということを忘れたくはないものです。




◇聖書ライターを支援してくださる方がおりましたら、支援いただける内容を添えて


mi.ta.gn2003@gmail.com


までご返信ください。


宮國