とあるいち聖書ライターのブログ

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2つの癒し

2つの癒し


「 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。
 だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、

 私たちの咎のために砕かれた。
 彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちは癒された。
 私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。
 しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。」
 (イザヤ書53:4~6)


 世の中には2つのタイプの人の癒しがあります。 


 ①他者へ喜びを与えて、他者に癒しを与えることによって、癒やしを感じる人。
  (キリスト者タイプ)


 ②他者が罰せられることなど、他者の不幸を見て、他者の痛みを見て、癒しを感じる人。
  (一般的世の中の人のタイプ)


 キリストは、キリスト自身に罪はなかったにも関わらず、十字架で刺し通され、死の苦しみを受けました。キリストにとっての癒しは、他者を癒すことによって、他者に喜びを与えることによって、キリスト自身の神の性質である、本領が発揮されるため、キリストはご自分の利得や快楽以上に、他者への癒しがキリスト自身の癒しであり、パワーの源だったのかもしれません。
 世間には、マゾヒストと呼ばれる病気や、サディストと呼ばれる病気があります。マゾヒストは自分自身が傷つくことによってしか癒しを感じないのに対し、サディストは他者を傷つけることによってしか癒しを感じないのです。これは、幼いころからの生い立ちや、人間関係の共依存関係が生み出した精神の病気です。
 キリストは十字架に架かって苦しみを受けることを喜んでいたり癒しを感じていたわけではありません。キリストは、自分自身が苦しみに耐える忍耐力はありましたが、サディストでもマゾヒストでもない、絶妙にバランスのとれた、罪のない心身ともに健康そのものでした。
 しかし、人々はそのキリストの打ち傷によって平安が与えられ、癒されたという現実があったのです。それは、世間は他者を傷つけてしか癒しを感じないサディストのような人の方が多いことが考えられるのです。
 キリストが十字架に架かるとき、世間は神の罰だと思いました。しかし、キリストには何の罪もなく、それは逆に世間の罪があったため、神は罪を身代わりとしてキリストの命をもって贖うということを実行したのです。    
 つまり、罪は罪ある人自身を罰しても、世は戦争が起きにくい御心の叶う平和な世の中にはならないことを知っていたのです。
 神から見れば、罪の代償は罪汚れのない聖い人の命によってしか贖えないという、完全なる聖さを身にまとう神のご性質なのです。
 たとえば、地位や価値の高いと世間で思われている人がいたとしましょう。その世間的価値の高い人の前に、罪を犯してしまった時、その罪を犯した本人の命をもって罰するだけではその世間的価値の高い人は満足しない場合があるのです。その罪を犯した人が億単位の額がおりる生命保険に入っていたとします。すると、その額で賠償金を支払っても、もし、その世間的価値の高い人の子を失うという罪を犯してしまった場合、いくら金額を積んでものその子はかえってはきません。つまり、命の代償はその分の価値のある命をもってしか償えないのです。
 つまり、その世間的価値の高い人が失ってしまった、息子がいたとき以上の幸せな生活を保障するほどの新しい存在に巡り合えねば、罪の代償を支払ったことにはならないということです。
 ですから、神は一度は失ったキリストを復活させ、天でご自分の右の座に置かれるというもう失うことはない、息子の命を取り戻すというご決断をされたのです。
 私たち人間は不幸な人生を送っている人はその人の行いに責任があると思いがちです。その人の罪が世間から罰せられているから不幸な人生を歩むと思いがちなのです。しかし、実際には周りの罪がその人の置かれた環境を悪化させている場合がほとんどなのです。
 命をもっても償えない罪の代償は、かけがえのない聖い命を犠牲にせねばならないほどに、神の目からは罪深い場合があるということを知りましょう。





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