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安楽死による尊厳死について考える

安楽死による尊厳死について考える



「 イエスは、また別のたとえを話された。「天の御国は、パン種のようなものです。女が、パン種を取って、三サトンの粉の中に入れると、全体がふくらんで来ます。」」
(マタイによる福音書13:33)


 今日は、「安楽死による尊厳死」について考えてみたいと思います。人は、何故苦しむのでしょう?それは、労苦をしのべば必ず良いことがあるという希望があるから、その苦しみに耐えられるのです。 結論から言うと、私は、「安楽死による尊厳死」の導入について賛成です。
 それは、今の時代、「生きる」ということと、「死ぬ」ということについて、あまりにも他人の命や人生に対して無頓着な社会の現状が見受けられるからというのもあります。
 「死にたい奴は死ねば良い。生きたい奴は生きれば良い。」
果たして、これで本当に良いのでしょうか?確かに、それは、筋が通っていることでもあります。
 しかし、精神疾患者の中には、「死にたくても死にきれない」という苦しみの中の人生をずっとおくっている人々がいたりするのです。 その苦しみを理解できないからといって、差別し責める人々も大勢いるのです。
 苦しみばかりの人生に何か意味があるのでしょうか?希望を持つことすら禁じられているような生き方を強いられている人々の苦しみを真剣に考えることができない世の中なら、これは、「安楽死による尊厳死」が社会一般に精神疾患者まで一刻も早く浸透したほうが良いのではないのでしょうか?
 人は失って初めて、その人の存在の大切さに気づきます。しかし、失っても気がつかない人々も多いものです。
 このように、病んだ社会に待ち受けているのが、殺人や戦争であるならば、憎しみ苦しみに耐えられない人々に、「安楽死による尊厳死」を提供したほうがより良い世の中になるのではないのかと思えるのです。
 人は、「生と死」について普段は考えたりはしません。あまりにも理不尽な世の中には、「安楽死による尊厳死」を導入することによって、社会の目を覚まさなければなりません。
 「生きる」とは、まさに、主に斜め線が入ります。つまり、誰でも生きているものは、主(神)のみこころによって天から降ってきて生まれたものであり、死んだら天へと霊は帰るのです。
 人は、死ぬことによってしか癒されないという場合もあるのです。
仏教では地縛霊などの存在もあると言いますが、キリスト教は死とは、天に帰ることでもあります。
ですから、どんな人も死ぬ前には必ず苦しみを体験することによって天への切符が手にできるのです。
 死にたくても死にきれない、そのような人生を歩むぐらいなら、苦しんだ分苦しみを和らげて、天へと帰り、永遠の癒しの世界に住んだ方がよいことでしょう。
 私たちは、他人の苦しみについて、考える必要性があるのではないのでしょうか?
 キリストは、他人の苦しみを癒すために世に来られた癒し主であり、救い主です。
そのキリストを信じるなら、他者の苦しみを黙って見過ごせるはずはないのです。





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