とあるいち聖書ライターのブログ

聖書からヒントを得て

先入観にとらわれない聖書解釈のもと、

聖書に興味がある方に見てもらうためのブログ

賢い者

賢い者



「 ダビデもまた、行いとは別の道で神によって義と認められる人の幸いをこう言っています。
 「不法を赦され、罪を覆われた人は幸いである。
  主が罪を認めない人は幸いである。」
 それでは、この幸いは、割礼のある者にだけ与えられるのでしょうか。それとも割礼のない者にも与えられるのでしょうか。私たちは「アブラハムには、その信仰が義とみなされた。」と言っていますが、どのようにして、その信仰が義と認められたのでしょうか。割礼をうけてからでしょうか。まだ割礼を受けていないときにでしょうか。割礼を受けてからではなく、割礼を受けていないときにです。」
(ローマ人への手紙4:6~10)


 私たちは、洗礼を受けた受けない、割礼を受けた受けない、以前に、神を信じイエス・キリストを主とすることのほうが重要だと言うことが聖書から読み取れます。まず、「心で信じて義とされる」と聖書にあるように、神は心で信じることを重要視されています。
 人は信じる者に似てくる性質があります。受ける影響によって自分のアイデンティティーが確立されていくのです。
 聖書は、全ての被造物は神の栄光を現していると言います。被造物とは神が創造されたものです。それは、神を信じる心がその被造物を通して神の存在を感じることができるのです。
 よく、宇宙飛行士で宇宙に行ったあとに、クリスチャンになる人がいるといいます。
それは、人間は何かしら自分の想像以上のものを目にしたとき、神の存在を実感する性質をもっているからでしょう。それは、神が人間を創造したときに、神を信じる性質(霊)を人間に与えたからだといいます。
 私たちは、賢い者やそうでないと言われる者様々な人々が存在します。裕福だから賢いかと言えば、あながちそれはどうか分からないことも、歴史上には多々あるのです。仏教で悟りを開いた釈迦は、裕福でしたが、出家し悟りの道を選びました。彼は、賢い者でしたが、裕福な暮らしをしていたかと言われればそうではなかったのです。キリストも同様に、決して裕福な暮らしをしていたわけではありませんが、今では世界中がその存在を知っています。
 歴史上の偉人たちは裕福ではなかった人々の方が逆に多い場合があるのです。しかし、彼らは不幸せだったかと言えば、それは分かりません。私が思うに、自分が何かの先駆者になるということは、決して不幸せな人生とは思えないのです。そこには、何かしらクリエイティブな能力と達成感が必ずあるのだと思われるのです。キリストの場合、十字架上の最期の言葉は、「完了した」でした。おそらく、使命を成し遂げた苦しみの跡の満足感があったのだと思います。
私たちは、神様の創造物を通して学ぶことができます。大自然の広大さを見て、あの遠くの地に行きたいなという冒険心であったり、この自然の性質はどうなっているのだろうか?という疑問と好奇心から天文学や気象予報などが生まれてきたのです。
 聖書のあらゆる人物から私が学んだことは、まず神を信じることで、
「 賢い者はどんなことからも、どんなものからも、人生を有意義に生きるヒントを得る 」
ということです。
 私は賢くはありませんが、賢い者になるように心がけることはできます。
 私たちがどんなものからも学ぶ姿勢を忘れなければ、限りない可能性と恵みと真実な賜物を神様は与えてくれるのだと私は信じています。