とあるいち聖書ライターのブログ

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ゆり動かされない人(自尊心の強さ)

ゆり動かされない人(自尊心の強さ)



「 弟子はその師にまさらず、しもべはその主人にまさりません。」
(マタイによる福音書10:24)


 人は現在進行形で受けている影響によって左右されやすい人が多いといいます。たとえば、生きている人には誰にでも自尊心は存在しておりますが、その自尊心の強さ弱さによっては、周りの人の言動や行動に左右されやすい場合があるのです。
 たとえば、精神病んでしまった障がい者に偏見を持たずに障がい者と接していても平気な人がいますが、中にはそのような人々と関わると平常心ではいられない人もいます。
これは、障がい者に偏見を持たない強さを持つ人の場合、多くは2種類のタイプに分かれます。
一つのタイプは、他者の苦しみを見ることによって快感を得るように気分が楽になる人。このような側面は、サディストという病気のようにも見えますが、人間には誰しも少なからずもっているものでもあります。
それは、カタルシスという言葉があるように、自分より悲惨な悲劇を見ることによって、現実の今ある自分の状態と比べて、今の状態に幸せを見出すという側面です。
もう一つのタイプは、自尊心が強いため、周りのどんな状況や言動にも流されず、自分を見失わないその人本人自身が価値が高い存在であるという自己肯定力や自己愛の強い人です。
 このような人の場合、自分と他者を比べてものを考えない性質があります。というよりは、他者がどのようであっても、自尊心が高いため、自分自身を見失わない強さがあるのです。つまり、他者に自分の図星というか、うちあたいする自分自身を照らし合わることがないということが言えます。人は、周りから否定されたり、傷つけられたりして自分自身の自尊心が弱くなったときに感情的になりキレやすくなったりしてしまうということです。 自尊心が強い人も時によっては自尊心が弱くなる場合もあります。それは、自尊心が強い人であっても、他人から受ける影響で否定的な影響を受け続けていた場合に自尊心が弱くなることが考えられるのです。自尊心が強い人の場合の多くは自分自身の人格に満足しているため、他者に対しても寛容である場合が多く、他者を傷つけたいとは思いません。ですが、自尊心が強くとも、特に精神面で苦しい人を本当の意味で理解している人の場合、精神面で苦しんでいる人を苦しみから解放させてあげたいと思ったときに、それを理解するには身をもって苦しみを担うことによってしか、本当の意味では理解はできないのです。精神的に苦しんでいる人の場合は大抵は自尊心が欠如している状態にあります。ですので、その人を理解してしまう心の内を読める能力の高い人の場合、その苦しみが自分のことのように思えて伝染して、自分まで自尊心が弱くなってしまうことがあるのです。 よく、長距離マラソンのプロやプロのアスリートなどは精神面が強いと言われます。それは、身体を鍛えて目標を達成することによって、自分自身の自尊心がより強くなり、周りの雑音をバネに自分自身の自尊心を高める訓練をしていける人が、アスリートなどでは成功しやすいのではないかと考えられるのです。 
 幼いころから価値の高い存在として扱われてきた人の場合、自尊心が高い大人に育つことが多く、そのような人は周りから傷を受けた経験が少ないために、周りを傷つける発想には至らないということが言えるのです。 そして、本当に自尊心が強い人は、公に明らかにしたら傷つくリスクがあるため、自分自身の心の内を大切に自分のものだけにしていることが多く、その人本人の心の内を隠すのが上手く、演技やウソが上手い人が多いことが考えられるのです。 逆に自尊心が弱い人の場合、自分より他人の方が価値があり素晴らしく見えるため、嘘や演技をあまりしない、万人から完璧に見られる人がいないように、心の内を守ることが下手な人は、演技やウソをつくのが苦手であったりするため、自尊心が弱い人が多いことが考えられるのです。 ですから、善い影響を受けるために善い師匠を持つことが必要な場合があります。また、師匠から受け継いだ志や、精神、自尊心の高さなど、ワザがあったとしても、全く同じ人生経験をする人がいないのと同じで人間はコピーロボットのようにはなれないものです。 また、コピーロボットを創り出そうとしたとしても、無理がきて反動がでます。
聖書が、「師にまさる弟子はいない」というのはまさにそのことです。
師匠のワザをいくら身に着けて弟子をつくっても、師匠自身にはなれないということです。
つまり、いくら偉くなってワザを身につけても師匠を越えられないという教えの中に、いつまでも学び続ける向上心と謙虚さがあり、人は高ぶらないという聖書の精神があるのです。
 だれでも、イエス・キリストを信じて、自尊心を高め、イエスのように自尊心の強い人に近づくことはできても、全能者である神にはなりきれないということと同じなのです。