とあるいち聖書ライターのブログ

聖書からヒントを得て

先入観にとらわれない聖書解釈のもと、

聖書に興味がある方に見てもらうためのブログ

新たな始まり

新たな始まり




「 あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、
子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって「アバ、父」と呼びます。」
(ローマ人への手紙8:15)



 キリストを信じる人の特徴は、人を恐怖に陥れることのないというところかもしれません。人は臆病なままであれば、新たなことにチャレンジする勇気すら出てはきません。また、誰か他者を助けたいと思う時、臆病なままだと、助けることすらできないのです。実に人を恐怖に陥れる人の特徴は、奴隷のように何かに怯えている臆病な状態なのです。しかし、キリストを信じるなら、キリストが命をもって十字架に立ち向かっていったように、臆病ではなく、愛のためなら「死」を恐れない勇敢さがあるのです。




「 奴隷の状態で召されたのなら、それを気にしてはいけません。
しかし、もし、自由の身になれるのなら、むしろ自由になりなさい。」
(第一コリント人への手紙7:21)


当時のイスラエルやローマの時代は、奴隷がいることが普通でした。つまり、奴隷社会が存在していたのです。現代では、その奴隷制度に反対して、民主化が起こったのです。つまり、民主化というものは、奴隷から自由の身になるという夢があり、そして、その聖書からくる教えが民主主義の特徴なのです。
 自由の身になれるのなら、むしろ自由になりなさいと、聖書が教える理由は、奴隷というものは常に周りの主人たちを恐れる臆病さがあるためでしょう。たとえ、奴隷のように貧しく虐げられる地位や身分であったとしても、キリストにある自由人として心の一新によって、何物にも束縛されない自由な新たな人生を歩むことができるのです。



「 神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格を下さいました。
文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者です。文字は殺し、御霊は生かすからです。」
(第二コリント人への手紙3:6)


 ここで言う文字とは、律法や戒律、のことです。律法は文字によって示されてきました。その律法自体を守ることはかえって律法を完全に守れないという矛盾を引き起こしたのです。しかし、キリストにある御霊の原理には、キリストの十字架から流れてくる恵みと愛があり、キリストを信じる信仰による、律法では到達できなかった神の愛を示す結果となったのです。
 もし、教えや律法が全てであったとするなら、キリストが語った、「放蕩息子」の話の結末は、父親のもとに戻った財産を使い果たした放蕩息子は赦されることなく、罰せられ奴隷とされたことかもしれません。しかし、神の愛は、律法や父の教えではなく、その放蕩息子を赦し受け入れるという父なる神の愛と恵みとあわれみの現れだったのです。 このように、御霊の心は生かし、文字は殺すということが言えるのです。
 人は、聖書を読むから、御霊に心が満たされるということではなく、キリストにある人々と接しその愛の何たるかを経験するから御霊に心が満たされ、御霊によって生かされるということが言えるのです。
 そこには、主にある自由人しか存在しないのです。
 人は何かを始めるとき、必ず過去の失敗から学び、新たな教訓として、新たに成功を求めて、前に進んでいくものです。それと同じように、キリストを信じた者も、信じる以前の罪と世の奴隷のような状態から解放されて、キリストにある御霊の原理の新しい自由の中、勇気をもって前に進んでいくことができるのです。
 それは、神は、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛されたという、ヨハネの福音書3章16節にある、キリストにある者が一人として滅びることのない、自由の中の永遠のいのちが約束された新しい契約の始まりなのです。



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