とあるいち聖書ライターのブログ

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ノーリスクの危険性(no pain, no gain)

ノーリスクの危険性(no pain, no gain)


「 主はこれを見て、公義のないのに心を痛められた。
 主は人のいないのを見、とりなす者のいないのに驚かれた。
 そこで、ご自分の御腕で救いをもたらし、
 ご自分の義をご自分のささえとされた。」
(イザヤ書59:16)


英語には「no pain,no gain」という言葉があります。これは、「苦労なくして、利益はない」と日本語では訳されていますが、直訳すると「痛みなくして、成長はない」とも読み取れます。
 多くの企業や社会では、ハイリスクを恐れ、ノーリスクが最善の策という常識的概念があります。
たとえば、企業なら、失敗を多くするかもしれない知識のない低学歴の人材を雇うよりは、知識豊富で将来有望性のある高学歴の人材を雇った方が、失敗するリスクは少ないと考えます。
 しかし、ここには大きな落とし穴があります。失敗するリスクのない高学歴の人材を雇った時、それなりの報酬を支払わなければならないということと、それなりの結果が出せなければ、それはかえってハイリスクというケースに陥る場合もあるのです。かえって低学歴の人材の方がコストもかからず前もって期待をしていないために、雇ったあとで儲けものという働きをする場合があるのです。
 むしろ、低学歴の人材の方が、こんな自分を雇ってくれたという気持ちから、向上心があったり仕事に対するモチベーションが高かったりするのです。
 いろいろな知識が豊富な高学歴の人材は、言わば出来上がった人材であることに対して、低学歴の人材はプライドが低く、一から仕事を学ぶ姿勢があったりするのです。
 たとえば、高い山に登山をするときのことを考えてみましょう。高い山に登山するには、体力もそれなりにいりますが、自己流の登山よりは、経験者と共に上る登山の方が危険は少ないものです。
 つまり、経験者の言うことを素直に聞ける人材の方がより登山が無難になる場合があるのです。
標高の高い場所に行き、酸素が薄くなるからと言って大きな酸素ボンベを担いで上る登山者がいるでしょうか? 大きな荷物となりかえって登山に支障をきたすことでしょう。しかし、この余計な知識が多い人材の場合、登山に大きな酸素ボンベを背負って登山する登山者に似ている場合があるのです。確かに、正しい知識があれば、備えあれば憂いなしということもあり、良い登山ができることでしょう。しかし、学校や本やインターネットで学んだからと言って、実践でのいざという時の臨機応変さは、経験者にはかなわないものです。
 また、ノーリスクの危険性は妊娠した女性に例えることができます。 妊娠した女性が出産するとき、赤子を生むとき痛みを感じるからと言って、子供を産まないという選択をするでしょうか?そうではないのです。 痛みというリスクを背負うから自らの子という新たな命の誕生の奇跡を体験することができるのです。 出産時は痛みに苦しみますが、産まれてしまえばそれ以上の喜びが待っていたりするのです。また、可愛い我が子をしつける時に、子供が何か口にしてはいけない物を口にしようとしたとき、子供が嫌がっても、それを食べさせないことが必要です。また、子が手術が必要な病気にかかってしまったとき、痛みがあるから手術を受けさせないとなると、救える命まで失ってしまうことにもなるのです。
 ここに、「痛みなくして、成長、成功はない」ということが言えます。
 私たちの住む世界には、テロリストや犯罪者といったような人々も存在します。しかし、そのリスクを危険だからといって、無視し続けるようでは、何の解決もされないのです。そのテロリストや犯罪者を生み出さないために必要な社会の在り方が問われ、その問題に向き合う姿勢が必要でしょう。 
 聖書のイザヤ書では、神様は、「公義のないのに心を痛められた」とあります。それは、罪をとりなす者がいなかったのです。つまり、皆、罪や殺人、堕落、弱い者たちに対して、見向きもしないというような現状があったのです。それで、神様はご自身の御腕で救いをもたらしたのです。その救いとは、神様の御腕であり、ひとり子であるイエス・キリストの十字架による犠牲という高いリスクのある神の決断、そしてすべての罪ある者の命を救い贖い、神の支払った代償のリスクを補って余りあるほどの復活という成功があったのです。