とあるいち聖書ライターのブログ

聖書からヒントを得て

先入観にとらわれない聖書解釈のもと、

聖書に興味がある方に見てもらうためのブログ

神を喜ぶこと、あなた自身を喜ぶこと

神を喜ぶこと、あなた自身を喜ぶこと



「 もし、割礼をを受けていない人が律法の規定を守るなら、割礼を受けていなくても、割礼を受けている者とみなされないでしょうか。 また、からだに割礼を受けていないで律法を守る者が、文字と割礼がありながら律法にそむいているあなたを、さばくことにならないでしょうか。
 外見のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、外見上の割礼が割礼なのではありません。
かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、
御霊による、心の割礼こそ割礼です。その誉れは、人からではなく、神から来るものです。」
(ローマ人への手紙2:26~29)


 聖書で、神の律法は600以上あると言います。そのすべてを守れる人は果たして存在するのか不思議にすら思えます。なぜなら、律法の下にある者は、律法によってさばかれると聖書にあるとおりに、律法とは殺してはならない、という律法と同時に、律法自体が、律法を破った時に、刑罰である石打ちの刑などがあるからです。 
 しかし、律法の全体は、「隣人を愛する」ということによって全体を全うするとも聖書にはあります。また、律法を破るように教えてはいけないとも聖書には書かれています。この中から読み取れることは、


「神の、目に見えない本姓、
すなわち神の永遠の力と神聖は、世界の創造された時からこのかた、
被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、
彼らに弁解の余地はないのです。」
(ローマ人への手紙1:20) 


とあるように、律法を成就する「隣人を愛する」ということのヒントは、全ての神の創造された被造物を知り、愛するところにヒントがあるのです。 人は、皆、神の計画によってこの世に生まれると聖書にあるように、人間自身、個人個人一人として欠けることなく、神の大切な宝物であり、創造物であるということが言えます。
 ですから、人間の本姓とは、神の創造した神の神聖を現す、自分自身律法を守ることによってしか、自分自身を肯定することはできないのです。
 そして、あなた自身が、あなた自身を肯定し愛することができない場合、あなたの周りにいるあなたの隣人を肯定し愛することもできないのです。 しかし先ほども述べたように、律法は600以上あります。これを全て守れと聖書は言っているのでしょうか? 実は聖書は600以上ある律法のすべてを守れ、と命令してはいないのです。つまり、聖書は、律法の全体を「隣人を愛する」ということによって、律法を守るということを勧めているのです。 それが、あなたや私が、自分自身を愛し、大切にするヒントになるのです。 自分自身を愛するということは、自己愛とは違います。まるで、自尊心の高いひとは、他者犠牲も強いと思われている部分はありますが、実は、本当の自尊心とは、律法を守るところにあり、神に仕えるように、人に仕えることが苦にならないということが言えます。 しかし、人は律法を守るように押し付けられると逆に反発心を持ってしまったり、逆に守れなくなる場合が多いのです。
 モーセは律法を授かり、イスラエルの民に示してきました。しかし、イスラエルの民は、その律法を守れないということを繰り返してきたのです。 実は、律法を守るのに一番に必要なことは、「神の神聖を知る」ということです。 それは、御心を知るということです。幸いにも、聖書は、神の心が書かれたストーリーが多く書かれた書物です。まず、この神の心を信じ自分のものにするということが、「隣人を愛する」ということには必要だったりするのです。
 たとえば、子供はなぜしつけることができるのでしょう。それは、親が自分自身を大切にしているということが分かって初めて、その子は親の言うことを聞くのです。
 また、年老いた親を大切にする子は、親に大切に扱われてきたという記憶や思い出があるから、年老いた親を敬い、大切に扱うのです。
 同じように、律法が大切にしているのは、神の御心です。律法とは、実は守るというより、信じること、律法を信じると良い人生があると確信できるところに、自尊心の向上や「隣人を愛する」ということを学ぶのです。     
 隣人を愛し、他者に仕えることのできる仕え人は、決して自分自身を責めて他者よりも汚れた存在と自己卑下しているのではなく、自分自身を肯定し他者も自分自身と同じように神の創造物であるかけがえのない存在と認め確信しているところにその本姓があり、神を愛するように隣人を愛する実行力があるのです。