とあるいち聖書ライターのブログ

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赦しのBeing(ビーイング)


赦しのBeing(ビーイング)


「 彼らの信仰を見て、イエスは「友よ。あなたの罪は赦されました。」と言われた。」
(ルカによる福音書5章20節)


人間社会には、許可するという意味での「許し」と、赦免するという意味での「赦し」が


あります。


何も自らは傷つかず、「来るもの拒まず、去るもの追わず」の姿勢はいわゆる、責任放棄


の姿勢の許可するという上から目線の「許し」であり、それとは逆に、自らが傷つくリス


クを背負い、自らが無条件に、相手を「来るもの受け入れ、去るもの思う」のとりなしの


姿勢が、いわゆる恩赦や赦免などに用いられる下から目線に立つ「赦し」です。 許可す


るという好意は、労力がいらないのに対し、


赦免には、精神的、肉体的労力も存在したりするのです。 


イエス・キリストは人類の罪を身代わりとなって十字架に架かり、その自らの傷を背負い


復活されました。ここには、神の愛である神からの一方的な人間との和解の恩赦であり、


赦免である「赦し」があるのです。人間の罪を赦すために、神が自ら傷ついたというわけ


です。一見、「許し」には、見返りを求めない、何でも許可されるという人間にとって好


都合であり、行いはないように見えます。しかし、「許可する」という裏側にあるのは、


楽であり、権力者の条件付きの「許可する変わりにこれを守れ」という裁きの側面が常に


ついてまわるのです。しかし、「赦し」には、見返りがありません。


なぜなら、「赦免」の裏側には、何が存在しているかというと、赦した側にある労力と


傷、だから、無条件であるのです。 「許し」が権力者が存在する権力者側は傷を負わな


いことを条件する「許可」を意味することに対し、「赦し」には、子を愛するために傷つ


くことを恐れない親のような下から目線の相手の命を想う


思いである「赦免」や「恩赦」があるのです。


「赦し」は、いわゆる自らが傷ついても赦される側を愛する、自己受容度と他者受容度の


高い、相手と自分への存在肯定力の「愛」があります。しかし、「許し」は、自己受容度


や他者受容度の低い、「許可する」代わりにこれを行えといったような、「裁き」がある


のです。


 神様は、自らが十字架に架かるほどに人類を愛された、犠牲愛である「赦し」の


Being(ビーイング)=「存在」そのものであり、その犠牲愛を示されたのがイエス・キ


リストです。そこには無条件の愛である「赦免」が存在し、信じる者には神を愛する者に


約束された永遠のいのちが存在しているのです。