とあるいち聖書ライターのブログ

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捕らわれの霊


捕らわれの霊



「 キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人の身代わりとなったのです。 それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、私たちを神のみもとに導くためでした。その霊において、キリストは捕らわれの霊たちのところに行ってみことばを宣べられたのです。
 昔、ノアの時代に、箱舟が造られていた間、神が忍耐して待っておられたときに、
従わなかった霊たちのことです。

わずか八人の人々が、この箱舟の中で、水を通って救われたのです。」
(第一ペテロの手紙4:18~20)



 生きている上で、何かに取り憑かれたような、何かに捕らわれたような人々は多いものです。
クリスチャンにしても、聖書のみの価値観に捕らわれた人などがいます。お金、仕事、家庭、遊興、
酩酊、依存症、どれにしても、何かに取り憑かれたような人はいるものです。
 旧盆の中日に、テレビで実話の心霊話の番組を拝見しました。 まさに、幽霊とは、私たち自身の何かに執着する心が生み出したものだという風に感じたものです。
地縛霊や悪霊などの存在をテレビで見たとき、彼らは不幸から悪霊になってしまったのだと感じます。 この悪霊たちは、この世の未練と憎しみから悪霊としてこの世に生きる幸せな人々を不幸にしてしまうという特徴があるのです。
 あるSNSで、「他人の不幸は蜜より甘い」と発言している人がいました。まさに、このような人は、他者を憎む悪霊のようです。
 この心霊番組を見て思ったのは、自分自身、悪霊の存在を感じたとき、恐れと不安が生じるということを知りました。しかし、何も恐れるものがないという人は実に高慢であったりします。そのように、傲慢の中を苦しんでいる人は、心霊ドラマや心霊番組を見て、不幸の結末がなんたるものかということに目を向け、恐れを感じることによって、心が解放されるのかもしれません。
 聖書では、「神を恐れることは知識の始まり」とあります。 この神も霊であるのです。イエス・キリストは、身体をもって復活したと聖書にありますが、同時にこの世では死んだ者となり、復活して霊として生かされているというのです。それは、その捕らわれの霊をも天に導くために、キリストは霊としての働きもあるということです。ノアの箱舟の洪水の時代に救われなかった人々の滅びた霊のことです。この霊というものは、かならずしも悪霊的な、霊のみを指すとは限りません。人々の心に受け継がれた憎しみの心や恨みの心を指す、捕らわれた心を言っていることもあるのです。
 たとえば、戦争の被害にあった地域には、恨み憎しみが子孫にまで反映されている場合があります。それで、戦地では戦後、治安が悪化したり、受け継いだ憎しみからテロリストや犯罪者になるケースもあるのです。ですから、このような戦後教育の間違いによる憎しみに捕らわれた人々は、その憎しみの心から解放される必要があるのです。そのような憎しみの心を受け継いだ人は、ある意味、戦争や災害で犠牲になった人々の霊に捕らわれているということが言えるでしょう。
 キリストはそのような人々を天において生かす救われた存在とさせることもキリストが十字架に架かり死んで蘇って天に昇天しみことばを宣べ伝えた目的の一つであり、聖書がある理由でもあるのです。
 聖書は、聖書にあるとおりに、義の矯正に有益とあります。しかし、なにより、心の救いという働きが聖書の一番の目的でもあるのです。
 この世で生きる上では、しがらみや、何かに捕らわれたような感覚になることはしばしばあります。
しかし、私たちは、霊を慰めるように神を信じ祈ることによって、心が解放されていくのではないのでしょうか?生きている人々は成仏できない霊のために供養したりします。それは、なにより、死んでしまった人々の救いを求める心と生きている人々の心の平安と安全な暮らしを目的としているのです。それと同じで、聖書は生きている人々の心の救い、そして滅びた霊の救いを願った書物でもあるのです。