とあるいち聖書ライターのブログ

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他者願望と自己願望

他者願望と自己願望



「 知恵ある者はだれか。
 その人はこれらのことを悟るがよい。
 悟りのある者はだれか。
 その人はそれらを知るがよい。
 主の道は平らだ。
 正しい者はこれを歩み、
 そむく者はこれにつまずく。」
(ホセア書14:9)


  人は何故、成功者と呼ばれる人と、失敗者と言われる人に分かれるのでしょう? 
 そもそも、成功とは、何か?失敗とは何か?それは、価値観によって大きくことなるので、一概に評価することはできないものです。世の中から高い評価を受けている人々は確かに成功者と言えるかもしれません。しかし、その高い評価のゆえに、いつも失敗してはいけないというプレッシャーのもとにあるのかもしれません。かえって、期待されない立場の失敗者と言われる人々の場合、失うものがないがゆえにプレッシャーや失敗を恐れることが少ないと言えるかもしれないのです。
 失敗と成功は大きく、二つに分けることができるでしょう。つまり、幸せな人は成功者で、不幸だと感じている人は失敗者と言えるのではないのでしょうか?
 お金持ちなど、裕福な人の場合その資産の力から、いろいろなことを経験し幸せに見える場合がほとんどです。それで、貧しい人々は財産を手にした方が自由が得られるし、あらゆる良いことを経験できると考えます。
 しかし、裕福なお金持ちの場合、必ずしも幸せかどうかはその人、本人しか分からないものです。
私は、貧しい家庭に育ち、今現在も貧しい者ですが、考えようによっては幸せな人生を歩んでいるかもしれないのです。ただ、今、ある現実を満足できない自分がいるため、幸せとは思えないことの方が多いのです。
 多くの人、いやすべての人は、誰か他者の影響を受けていると言えます。つまり、今ある現実は、
他者願望と自己願望のマッチングの力が生み出していると言えるのではないのでしょうか?
たとえ、他者願望や自己願望と今あるその人の現実が違っていたとしても、その他者願望や自己願望の生み出した結果が今ある現実ということが言えるのです。
 イエス・キリストは、「天の御国はあなたのただ中にある」と言われました。また、聖書には、「絶えず祈り、絶えず喜び、全てのことに感謝しなさい」などと教えています。
 つまり、他者願望や自己願望とは関係なしに、今ある、現実を喜ぶことを教えているのです。
なぜ、キリスト教会の多くの殉教者は、死を恐れず、十字架刑を恐れずキリストに仕えることができたのでしょう?
 それは、何者にも動かされることがない心があったのです。命にすら代えられないほどのものを彼らは信じていたのです。
 それで、彼らを十字架刑に処すという他者願望と、天国に行けるという自己願望の力がマッチングして、キリスト教徒の殉教という現実が生まれてしまったと言えるでしょう。
 多くの人々がSNSでがつぶやいたり、現状に満足できないため、私たちは、普段、今ある現実の物事を他人のせいにして生きていることは多いものです。
 しかし、今ある現実は、今の自分自身の心の自己願望が生み出した結果とも言えるのです。
ですから、今の自分自身が何を求めて生きていけば良いか?とか、他者のニーズ、いわゆる他者願望を知ることが大切と言えます。
 社会で治安が悪くなる地域や紛争などが絶え間ない地域がある理由は、その自己願望と他者願望がぶつかり合って、その現実が生まれているのです。ですから、今の自己願望を見つめ、他者願望を受け入れる姿勢がそのような地域には必要になってきたりするのです。
今ある現実に満足できない場合、他者に求める前に、自分自身の心の何かを入れかえることによって現実の何かが変わってくるのではないのでしょうか?