とあるいち聖書ライターのブログ

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御霊に生きる人

「御霊に生きる人」


『私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。』(ローマ5-6)


ここでは、「強い人」、「弱い人」とはどのような人かを少し考えてみたいと思います。
世間では「強い人」といえば、経済的に自立した大人であったり、または、競争社会の中で常に勝ち続けている人を連想する人は多いでしょう。
「弱い人」といえば、貧困に苦しむ社会的弱者や、経済的に自立のできていない障害者を指すこともあるでしょう。 また、私の通う教会での「強い人」とは、敬虔な者、何ものにも依存しない神様の元で自立した人を思わせます。それが、悪魔によって損なわれた神様との関係の回復への道だということだからです。
教会での「弱い人」とは、それとは逆で、不敬虔な者、あらゆるものに依存してる人、あらゆるものに捕らわれた人などを指すはずですが、実際には世間と同じように貧困に苦しむ社会的弱者や、経済的に、精神的に自立できていない障害者などを指している場合が多いのではないでしょうか?
また、教会では誇らないために、「弱いところがかえってなくてはならない」、と使徒パウロは語っています。
聖書では、このような貧困に苦しむ社会的弱者(世間的視点)、経済的に精神的に自立できていない障害者(世間的視点)、不敬虔な者(教会的視点)、あらゆるものに依存している人(教会的視点)、あらゆるものに捕われた人(教会的視点)が、かえってなくてはならない人々ということになります。


また、使徒パウロ自身、イエスを迫害する程に不敬虔で、弱かったものだったと言っています。
そこで気がつくのは、聖書で言う「弱さとは、神様を迫害するほどの不敬虔な人のことを指していることが分かります。


ここで、神様の視点で見てみたいと思います。イエス・キリストはこう言われました。


「心の貧しいものは幸いです。天の御国はその人のものだからです。」(マタイ5-3)


では、心の貧しいものとはどのような人を指すのでしょうか?
世間では、おそらく思いやりのない人や、陰愚痴ばかりを言っている人、何に対しても否定的な人、無感情な人などを指し、
キリスト教会では、神様を信じきれない人や、あわれみの心のない人、愛のない人を指すことでしょう。
つまりは、イエスは天の御国はこのような人のものだと言っているのです。
ここで気をつけたいことは、だからと言って、天の御国は迫害者のものだということではなく、迫害者すらも天の御国への救いに導く、神の御救いのことを指しているのです。



教会の週報で、「御霊に属する人」、「肉に属する人」という題目でその説明をしているのを読んだことがあります。
つまりは、その違いを知り自分を知るために、ということでこのような題目でメッセージをしていたことでしょう。
しかし、ここで「御霊に属する人」、「肉に属する人」ということで、あらゆるものに依存している不敬虔な人、あらゆるものから解放された敬虔な人と、差別してはいけないと私は思います。差別するのではなく、自分を知り成長するために受け入れるのです。
それは、


「さばいてはいけません。さばかれないためです。あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれるからです。あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。」(マタイ7-2)


イエスが教えているとおりに、世間と神の視点は常に逆だからです。
差別すれば、差別されるのです。世間の神は悪魔だからです。
人は、誰でも罪を持っています。
完全なる神様の前では、義人など一人もいないからです。
ですから、もっとも大切なことは、神の御救いや福音のため、差別せずに赦していくことが大切なのではないのでしょうか?


「もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。しかし、人を赦さないなら、あなたがたの天の父もあなたがたの罪をお赦しにはなりません。」(マタイ6-14、15)


今、私は、教会での価値観や、世間での価値観という風に、分けて考えるということに戸惑いを感じています。
世間のノンクリスチャンもクリスチャンも同じ人間だからです。キリスト教会の組織も、社会のコミュニティも、金銭の上に似たような考え方がはびこっているのです。ただ、向かっている方向が、神を見て天の御国を選ぶか苦しみの地獄を選ぶかのどちらかなのです。