とあるいち聖書ライターのブログ

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神のおりなすドラマ

神のおりなすドラマ


「 「~どうか、主が、あなたの家にはいる女を、イスラエルの家を建てたラケルとレアのふたりのようにされますように。あなたはエフラテで力ある働きをし、ベツレヘムで名をあげなさい。 」 」
(ルツ記4:11)


 この聖書個所は、ボアズがルツをめとったときの、イスラエルにある習慣の買い戻しの権利(親類が死んでしまったとき、その亡くなった親類の妻を、その親類の妻との血のつながりのない親類が買い戻し妻とするような権利)の証人となった門にいた人々と長老が証人のしるしとして祝福の言葉をボアズとルツに告げた場面です。現代で言わば、この門にいた人々と長老がボアズとルツの仲人になったのです。
 ここで彼らは、ルツがイスラエルの家を建てたラケルとレアの二人のように、神に祝福された女性のふたりのように幸せになることを願ったのです。
 ここで姉妹でヤコブ(イスラエル)という一人の夫を持った、ラケルとレアのことを少し考えてみたいと思います。 当時ヤコブ(イスラエル)は、ラケルの方を愛していて、ラケルとヤコブは両想いの関係でした。
 そしてヤコブはラケルを妻とするために、ラケルとレアの父である、ラバンに仕えるという約束をします。まず初めに七年間ラバンに仕える約束をし、そののちラケルを妻とする約束になっていました。そして、その七年間仕えたのちに祝宴をしたのです。しかし、おそらくヤコブが酔っているときに、ラバンはラケルではなくレアをヤコブのもとに遣わします。気づかないヤコブはレアと性行為を行ってしまうのです。ヤコブは翌日それに気が付き、それでもラケルを諦めることができず、ラバンのもとで、さらに七年間仕えます。そうして、ようやくラケルとヤコブは結ばれたのです。
 当時のイスラエルは妻をめとる時、女奴隷も一緒についてくることがあり、ヤコブにはそれぞれ、ラケルとレアの女奴隷によっても子を残しました。日本で言えば、昔の側目のようなものです。ラケルにはなかなか子ができず、おそらくレアとの間には確執のようなものがあったのかもしれません。 しかし。ヤコブが愛したのはラケルでしたが、彼は同様にレアをも扱っていたのです。ヤコブはイスラエルとして多くの財産を築き、彼女たちは女奴隷とともに、祝福された人生を歩むことができたのです。 もちろんヤコブの苦労も多々ありましたが、彼女たちは一人の夫を一途に愛し、12部族のイスラエルの家を築く基となったのです。
 今の時代の日本では、一夫多妻という制度はありません、離婚と再婚を繰り返した人で、子だくさんに恵まれた人はいることでしょう。しかし、彼女たちのように、夫を支え一途に愛するということの大切さが聖書を読めばよく分かります。それは、祝福される人生には夫と妻が愛し合うということが、非常に大切になってくるからです。 ボアズの場合、亡くなった親類の妻であったルツをめとりました。ボアズは彼女の想いを受け止めたのです。 旧約聖書を読んでいると、その男たちの男らしさがよく見てとれます。それは、ヤコブはラケルを妻にするため、14年もラケルの父のラバンに仕えたことや、ボアズはルツの新しい夫探しをしただけでなく、見つからないときは自分が引き受けると約束をし、ルツの想いを受け止めたのです。
 ヤコブの妻であるレアの子孫からユダが生まれ、ユダの妻、タマルの子孫として、ボアズが生まれ、そしてボアズとルツの子孫としてダビデ王やイエス・キリストがお生まれになったのです。 旧約聖書で最も祝福された女性として上げられるのが、このヤコブの妻のラケルとレアや、ラケルの子であり腹違いの兄弟であるヨセフの命を救った、ユダの妻タマルであったりするのです。
 救い主イエス・キリストの系図には不思議なところがあります。それは、ユダがヤコブが初めから愛していなかった妻のレアの子孫であるように、ユダは初めから愛してはいなかった嫁のタマルを妻とし、ボアズが初めから愛してはいなかったルツを妻としたように、ダビデ王にはウリヤの妻の子孫としてイエス・キリスト父ヨセフが生まれたのです。イエス・キリストの場合、マリヤが聖霊によって身ごもったのですが、その血のつながりのない育ての親としてヨセフを父とし、れっきとしたイスラエルの部族の血を引いた形で生まれたのがイエス・キリストでした。つまり、愛が生まれるところには血筋は関係ないことが分かります。
 私たちは、初めからの両想いとか、親の存在とか、血筋とかでその愛する人を判断してしまいがちです。
しかし、旧約聖書の祝福された人物たちの愛から学べることは、神に祝福された愛には血筋以上に人を愛する心と、神の愛は諦めず創り上げていくものであり、その中には苦労の中のドラマと人間愛がそれぞれにあったことがわかるのです。
 「 しかし、主はサムエルに仰せられた。『彼の容貌や、背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。」
(サムエル記第一16:7)