とあるいち聖書ライターのブログ

聖書からヒントを得て

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聖霊に満たされた者

 聖霊に満たされた者



「 イエスは目を上げて弟子たちを見つめながら、話し出された。 
「貧しい者は幸いです。神の国はあなたがたのものですから。
 いま飢えている者は幸いです。あなたがたは、やがて飽くことができますから。
 いま泣いている者は幸いです。あなたがたは、いまに笑うようになりますから。」
(ルカ6:20~21)


 この世の中に生きている以上、辛いことや悲しいこと、また、虚しさにさいなまされることなど年齢を重ねれば重ねるほど出てくる場合は多いものです 。
 旧約聖書のソロモンというイスラエルで神から恵まれた知恵と栄華を極めたとされる王様もその一人です。ソロモン王は、幼い頃から賢さとイスラエルの民をさばく平和のための知恵を祈り求めた人です。しかし、ソロモン王は老年になると空しさを感じるようになっていったようです。それは、知恵と知識を神に祈り捜し求めて得た結果、逆にその知恵と知識がありすぎたために、アダムとエバが悪魔の誘惑に合い善悪の知識の木を取って食べてしまったために、堕落してしまったように、ソロモン王も、知識を追い求めすぎた結果、他国の女性と数々の姦淫の罪を犯してあらゆる偶像礼拝という罪を犯してしまったのです。
 人は誰でも、幼いうちは純粋に信じるということに長けている場合は多いものですが、あらゆる学識を得て知識を持って大人になるに連れて、高慢になってしまっておごりを産み失敗してしまう場合は多いものです。 
 新約聖書で、イエス・キリストはご自分でソロモンよりも勝る者と表現しています。それは、イエスは、知識と知恵ももちろんあったことでしょうが、それ以上に聖霊により身ごもった女から生まれた神の子であり、救い主という、神の人格を持ち合わせていたのです。それは、人間には知識や知恵はもちろん必要ですが、それ以上に優れた人格というものは何者にも変えがたい宝となることがあるのです。
 旧約聖書の最後の時代から、新約聖書の初めの時代まで、約400年間も神が語られない、空白の時代がイスラエルにはあったと言われています。その間、イスラエルの民は、その習慣を守り、新たな指導者や救い主の誕生を待ち望み続けていたのかもしれません。
 私たちが生きる上では希望は必要です。しかし、この文頭にある聖書箇所のイエスの有名な山上の垂訓と呼ばれる、箇所は、ただの希望ではなく、神が生きているなら多くの現実でもたらされる実を言い表した言葉でもあるのです。これは、聖霊に満たされているイエスの人格そのものが知恵や知識以上に、人間に必要な神を信じる上で得られる徳を高める預言のメッセージとも言えるのです。 聖書を信じる人々だけでなく、聖書を知らない未信者や他宗教の人々にも言えることは、聖書にもあるとおりなんでもかんでも信じるのは愚か者であるとあるように、人間は知恵をつければそれなりに、人を信用しすぎないことを覚えるものです。しかし、根にある個人的な私信や信念、信仰などは必要だったりします。経済にしてみても、供給と需要の信用の上に経済は成り立っており、治安の安全も社会の人々の信用の上に、成り立つものです。
 私たちの生きるこの世界は、決して安全が保障されているとは言えないものです。しかし、生きる以上、自分の信じる人生の道に勇気を持って前に進んでいく必要があるといえます。
 旧約聖書のモーセがイスラエルを率いて奴隷とされたエジプトから脱出して、約束の地であるカナンに入ることができた時に、その時の約束の地での指導者であるヨシュアに神はこう語っています。
 「 強くあれ。雄雄しくあれ。わたしが彼らに与えるとその先祖たちに誓った地を、あなたは、この民に継がせなければならないからだ。」(ヨシュア記1:6)
 約束の地にたどり着いて、潤いのある地にたどり着いたはずのイスラエルの民に待ち受けていたのは、異邦人との戦いの連続でした。人生は目的を達成したというつかの間の安心のすぐ先には常に試練が待ち受けていたりするものなのです。しかし、だから人生には苦しみもある分サプライズもあり神様を信じるなら個人個人に神様の用意した歴史やドラマがあると言えるのかもしれません。