とあるいち聖書ライターのブログ

聖書からヒントを得て

先入観にとらわれない聖書解釈のもと、

聖書に興味がある方に見てもらうためのブログ

かけがえのないもの

かけがえのないもの


「 空の空。伝道者は言う。空の空。すべては空。」
(伝道者の書 1:2)


「 人は、たとい全世界を得ても、いのちを損じたら、何の得がありましょう。」
(マルコによる福音書8:36)


 あなたにとってかけがえのないものとはなんでしょうか。人により様々あることでしょう。おかね、地位、名声、友情、恋愛、家族、財産、信念、信仰、平和、知恵、なかには、争い、性行為、などと言う人もいるかもしれません。 しかし、このどれも、手にした人が旧約聖書には出てきます。それが、文頭の伝道者の書を記したと言われる、ダビデ王の子のソロモンという旧約聖書に出てくるイスラエルの王様です。結局、ソロモンは、すべてを手にした結果、空しさを覚えてしまうようになってしまいました。それは、神にすべて栄光があり、すべてを得たがゆえに逆にすべてを失ってしまったと言えます。 私たち人間には限界があります。
 算数の世界では、99に1を足したら100になります。つまり、99得ても、1足りなければ100にはなりません。100という答えを出したい時、99が在るならそれに1を足して100になってはじめてすべてが満たされるのです。 しかし、人間の心というものは不思議なもので、算数のようには行きません。すべて100になったと思った瞬間に空しさがくるのです。ある教会では、「神様には数字の法則は通用しない」とメッセージされている牧師がいました。99+1=100とは限らないというのです。 聖書の神様の場合、神様という名前を人間はつけています。ジーザスとかゴッド、とか、また仏教なら仏とか、ユダヤ教ではヤハウェ、この世には神と呼ばれる地位の名前が様々あります。
 しかし、これはどれも人間がつけた名前に過ぎないのです。人間にとって必要であるがゆえに名前をつけて呼んでいます。しかし、神様には人間のつける名前以上の存在であり、理解を超えていて名前など存在しないというのです。つまり、99に1を足して100というように上手くは理解できるようにはできてはいないということです。簡単に言えば理解できれば、それは神ではないと言えます。 
 私たちの住む世界には、あらゆる地位の高い人々や有識者などが存在します。その人々がもし、すべてを理解していたなら、それこそ空しくてならない人生でしょう。旧約聖書では、人類は天まで届くかのごとくバベルの塔を建てた話があります。世界中の人々が、一つのことばで一致して天にまで届くかの勢いでバベルの塔を建て始めたのです。しかし、神は、そこで人間の言葉を乱されました。コミュニケーションがとれないように混乱させたのです。それは、なぜでしょう。世界中の人間が一致したところで、人間がいかに罪深い乱れた存在かを知っている神様が神様であるためです。
 この世界には、あらゆるエネルギーが存在します。電気、電磁波、自然エネルギー、火力、原子力、重力、さまざま存在します。しかし、それが人類が上手く生きるために機能するには、バベルの塔のように言葉が一つになり天まで届く勢いの文明となると逆にエネルギーが機能しなくなり、混乱が起きると考えられるのです。分かりやすく言えば、積み木を立てるとき、その積み木の土台が大きければ大きいほど高く積み上げていくことができますが、高さが増すに連れ、崩れやすくなったり、積み木の材料が無限大にはないように、どこまでも高く立てることは不可能ということです。 宇宙開発にしてみても、地球の資源を使って莫大な経費をかけて、宇宙船を作り、あらたな目的地へと到達します。宇宙開発の魅力は他の星や惑星を開拓できれば、他の星や惑星の資源を利用することが可能になる可能性を秘めているというところです。 
 聖書で、イエス・キリストは、「たとい全世界を得ても、いのちを損じたら、なんの得がありましょう。」と言っています。それは、キリストの言ういのちが何を意味するのかが問題なのではなく、全世界を得ようとするところに問題がある、逆に言えば、すべてを得たら逆にすべてを失うと言いたかったのかもしれません。 世界が西暦で動いているように、まるでキリストはすべてを得たために十字架の死のみならず、いのちを失ったかのようです。しかし、復活したと聖書にあるキリストは永遠のいのちを与えることができると言います。なぜなら、天の御国はあなたの只中にあると語ったキリストにとっては、見える世界よりも見えない心を大切にしているということが言えるからです。

「 私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、
夫のために飾られた花嫁のように整えられて、
神のみもとを出て天から下って来るのを見た。」
(ヨハネ黙示録21-2)