とあるいち聖書ライターのブログ

聖書からヒントを得て

先入観にとらわれない聖書解釈のもと、

聖書に興味がある方に見てもらうためのブログ

いのちの電気

「彼らはイザヤに言った。「ヒゼキヤはこう言っておられます。「きょうは、苦難と、懲らしめと、侮辱の日です。子どもが生まれようとするのに、それを産み出す力がないのです。おそらく、あなたの神、主は、ラブ・シャケのことばを聞かれたことでしょう。彼の主君、アッシリヤの王が、生ける神をそしるために彼を遣わしたのです。あなたの神、主は、その聞かれたことばを責められますが、あなたはまだいる残りの者のため、祈りをささげてください。」(イザヤ書37:3〜4)


私は、14年ほど前のクリスマスの時期にアメリカのクリスチャンの叔母の招きで、アメリカ本土に2ヶ月間滞在し、人生初の海外旅行をした経験があります。そこで見たことは、アメリカの教会のクリスチャンたちは、全て喜んでというわけではないのかもしれませんが、老人福祉施設で聖書を老人に読み聴かせてあげたり、奉仕したりしている人々などがいました。叔母と共に、日曜日の教会の礼拝が済むとその老人福祉施設に行き、家族の写真が飾られていながら孤独を感じている人々に、教会の大人たちが教会の子どもたちを連れて、車イスで広いリビングに集め、牧師のような方がメッセージしたり、子どもたちと老人がおしゃべりをしたりということをしていました。教会では実は神様を信じるクリスチャンの場合、死期が迫った病人や、寿命がせまる高齢者などでも、聖書の話をクリスチャンや牧師から聴かされて命を吹き返すという話が多く実際に安らかに最期を迎えられる人々も多いといいます。アメリカ本土へ行く前までは、米軍基地が多い地元の島の米軍兵のイメージやアメリカの治安の悪さのニュースなどでアメリカ人は皆、凶暴なイメージがありましたが、すべてが

そのようなわけではないと言えます。


クリスチャンでも、立場によっては、喜べない奉仕を任されることもあります。


しかし、それは、神様の計画によるその人にとっての最善のためであったり、その人を活かしつつ周りも活かすためだったりするのです。


出来ないことでも出来るようにされることで、人は一歩ずつ成長すると言えるのかもしれません。