とあるいち聖書ライターのブログ

聖書からヒントを得て

先入観にとらわれない聖書解釈のもと、

聖書に興味がある方に見てもらうためのブログ

新たないのち

「自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。」

(ヨハネによる福音書12:25)


今の時代に限らず、

人類は文明が生まれるところには、必ず発明や、新しい楽しみや、利便性、製品、開拓などが生まれています。


これは、人間は新鮮なものに、興味を示し、新しいものを追い求める特徴があると言えます。


しかし、この新しいものを体験したり、得るためには、必ず犠牲というものが存在しているという事実があるのです。


たとえば、幼い子供であればあるほど、物事に興味を示しやすい性質があり、自由や興味のある新しいものを求める特徴がありますが、

子供が成長していく中で、次第にルールを守らなければならないことを学び、

自由が制限されやすいということが言えます。

大人になり、子を持つと、今度は自由を制限されやすく、自由を得る以上に、子に自由を与えなければならなくなると言えるのです。


新約聖書の一節には、大切なのは新しい創造、とあります。


これは、神が何もないところから、全世界を創造したと聖書にあるように、神は新しい創造を大切にされていると言えるのです。


意外にも、人の新しいアイディアなどは、いのちと呼べるものを失うところから生まれてくるという場合が多いと言えるのです。


たとえば、貧しい地域や田舎を都市開拓するには、その貧しい地域や田舎にあるものを取り壊さなければ、都市開拓は進みはしません。


今まで大切にしてきた大切なものを失うことで多くを生かすための、新しいものが得られるということがあるのです。

聖書で、

旧約聖書の律法を大切にしてきた当時のイスラエルの律法学者は、ほとんどが、その律法や風習という、彼らにとってのいのちを捨てきれなかった為に、救い主を信じる事が出来ませんでした。

新約聖書は、新しい契約を意味します。

なぜ、神はイスラエルのみならず、人類に救い主による新しい契約が必要だと考えたのでしょう?

それは、神様の御心が変わったわけではなく、イスラエルに律法を与える以前にすでに存在していた、

アブラハムの神に対する信仰など、

神の霊感による律法の性質は、基本は神を信じる事が最優先だと、イスラエルや人類に思い起こさせる為だったからでしょう。

モーセがシナイ山に神からの啓示を授かりに行っている間に、リアルタイムでイスラエルの民は神を信じきれなくなった為に、神は律法を与えるという選択をしたと言えるのです。


新しい創造や新しいアイディアなどは、基本、新しい創造の先駆者を信じるところから生まれてくると言えるのです。


私たちは、今までの暮らしを捨てきれない為に、苦労している人は多いのかもしれません。

しかし、何かしら今までの暮らしや考えを捨てるなら、その代償として、新しいものを得ることが可能になる場合は多いと言えます。

私は、法律にはあまり詳しくはないのですが、

日本の法律が改憲されたり、新たな法律が増えたりする理由は、

おそらく、それなりに問題があるから、新たな法律ができると言えるのです。

今の時代には、新しいスポーツなども多く存在し、そのスポーツには、それなりのルールが存在するものです。


しかし、新しいスポーツが生まれる根本的なところは、ルールのない楽しむところから生まれて、そこに楽しめない問題が生じるため、よりフェアに楽しむための新たなルールを作り、一つのスポーツが誕生するのです。


救い主は、律法や風習という、いのちを犠牲にすることで、新たな基本的な原点である神を信じる心を人々の心にうえつけ、復活という、新たないのちを得たということを、聖書は証明しているのかもしれません。