とあるいち聖書ライターのブログ

聖書からヒントを得て

先入観にとらわれない聖書解釈のもと、

聖書に興味がある方に見てもらうためのブログ

節度なしには機能しない原理

教会に来て、


洗礼を受けた、クリスチャンなどは、


古い自分に死に、新しいキリストにある者として、


神に生かされる新しい人生を歩む、と


教会では教えています。


つまり、聖書の人は水と御霊により、神に生かされるとある奥義に従っているわけです。


古い自分に死ぬ、とは人により様々な解釈があるのかもしれません。


聖書は、聖書自体に、「聖書は逆に全ての人を罪の下に閉じ込めた」というようにありながら、「聖書は、義の矯正に有益」というようにもあります。


また、「罪のあるところには、恵みも増し加わりました」などともあります。


なぜ、このように、神を信じ律法を守り、罪を犯さないように教えながらも、罪を助長するような表現が聖書には、あるのでしょう。


それは、人は、純粋なままでは、生きにくい世の中というのは、昔も今も変わらないと言えるからです。


教会に通い洗礼を受け、古い自分に死に、多くを得た結果、多くを求められるようになる、ということも言えます。


神を信じない事が一番の罪だと、教えている教会などは、なんでもかんでも信じなさいと言っているわけではありません。


たとえば、古い自分に死んに、神により多くの自由を与えられた結果、


多くを求められ、もとあった自由以上に、束縛され、病人を癒すことや悪霊に憑かれたような者を解放し、キリストと同じような、

働きを求められると、いくら聖書に忠実な教会や信徒でも対応しきれなくなるということが言えます。


つまり、誰も神にはなれないのです。


そのように、世にクリスチャンやキリスト信者は、キリストのような神になる事を求められた結果、多くのいのちを失ったという歴史的事実が存在するのです。


人間には限界があるように、求めることや、得ることにも、限度と節度がなければ、雨や雪に打たれ続けても裸で働くことを求められると体を守ろうと免疫細胞により体が炎症を起こし風邪を引いたり高熱を出し、死に至る事があるように、機能するものも機能しなくなると言えるのです。


教会に集う、クリスチャンは、召し出された者を意味する、「エクレシア」などと教えています。


つまり、能力があるから、神に召し出されたわけではなく、


元々、能力がない者が、神に生かされ用いられるために、召し出された、「エクレシア」が教会に集うクリスチャンということです。


神を信じる人に力があるのではなく、


神を信じる者に働く、神に力があると言え、

世の中や、人間が何もかもを得ようと求めすぎる高慢などにより、

キリストが「ユダヤ人の王様」という罪状書きを貼り付けられながら、


十字架にかかり、いのちを落とした結果、


イスラエルの安泰が遅れイスラエル以外の外国人にその栄誉が分散されたように、

神を信じるという

いのちを失ったクリスチャンには、


神による働きは期待できないということです。


「あなたの一生の間、だれひとりとしてあなたの前に立ちはだかる者はいない。わたしは、モーセとともにいたように、あなたとともにいよう。わたしはあなたを見放さず、あなたを捨てない」(ヨシュア記1:5)


モーセが死んだ後、ヨシュアにこのように語られた神は、ヨシュアが神に求める以上に、神への忠実さがあったからだと言えるのです。