とあるいち聖書ライターのブログ

聖書からヒントを得て

先入観にとらわれない聖書解釈のもと、

聖書に興味がある方に見てもらうためのブログ

ruleがないコミュニケーション

言葉の使い方で全ては決まる。


そのようにすることで、お金に恵まれる成功への道を歩むと教えている人々は多いものです。


これは、聖書を元にした心理学を研究し教えている教会などが、


広めた知識と言えます。



自分を変えて、成長した

言葉の使い方によって、人を楽しませたり、人から魅力的に思われるようになる、と言ったようなことです。

しかし、言葉の使い方によって成功を得るというのは、

何も現代に限らず、

戦国時代など、昔から存在します。

上司に対して、

褒められたり、栄誉を頂くと、

有難き幸せ、「自分が有る事が難しい、周りから嫉妬され肩身が狭くなるほど幸せ。」

のような意味合いがあったりします。

ありがとうを大切にし、


すみません、


を言わないようにするというのは、


聖書に「いつも喜び、絶えず祈り、すべての事に感謝しなさい」とあるように、


ありがとうをよく使う事で、喜びや感謝を表現し、


すみません、と言わず、


謝らない代わりに、


悔い改める、という行動力で


周りに示す、という事が言えるのです。


聖書のヨハネによる福音書では、


「ことばは神であった。」


とあるのは、神のことばにより、天地万物は創造されたと聖書にあるからです。


この聖書箇所の「ことば」は古いギリシャ語では、「キリスト」を意味すると言われています。



確かに、言葉の使い方を工夫し、悔い改める姿勢で自分を変えていくことは、祝福された人生の秘訣かもしれません。


しかし、聖書が真実な書物なら、


「神は心を見る」とあるように、


口先だけでは、神から祝福される事はないとも言えるわけです。


ことばが、キリストなら、ことばを使う以上に、ことばを信じ、ことばに従うことが、神の目からは善しとされるのかもしれません。


この世界では、相手を蹴落とすためのことばも、数々存在します。


古い言葉を信じる事ができなくなる、から新しい言葉が生まれ、


人類のコミュニケーションは変化してきたと言えます。

今の時代は、

「すみません。」という表現を悪く受け止める人々も多いものですが、


謝罪するということは、

罪を告白する以上に、自分だけではなく他人の身を守る事に繋がることは多いのです。

だから、地位のある立場の人達は、偽善者のように見えますが謝罪で事を済ませようとするのは、それなりに自分の落ち度を表現しているわけです。


それは、聖書では、神に罪を告白し、悔い改めることを進めていますが、

罪を誰かに告白する事は、

逆にその欠点や罪を必要以上に責めて責任を背負わせる人々も存在するということが言えるのです。


「すみません」は、「済みません」

であり、取り返しのつかないことをした、という意味合いがあります。


人は、取り返しのつかないことをした、と古い自分の失敗を認めることで、

失敗しないように成長するという場合もあるのです。

もし全ての謝罪が責任逃れの「逃げ」を意味し、無意味なものになるなら

それこそ、戦国時代のように失敗をしたら謝罪を認めない「切腹」という時代に逆戻りということが言えるわけです。

イエス.キリストは仲介者であり神と人間との間を取り持つ和解者や弁護人などに聖書ではたとえられます。つまり、キリストに罪を告白する者を赦し、罪を悔い改めさせ、神にとりなし、ご自分が責任を背負う事により、神と人間の和解を成立させるというわけです。聖書にある、謝罪とは、ごめんなさいや、すみませんではなく神に赦しを乞うことや、祈りです。


新たな言葉の使い方が得意なのは、


幼子たちだったりするのて



「 思慮深い人々は大空の輝きのように輝き、多くの者を義とした者は、世よ限りなく、星のようになる。」

(ダニエル書12:3)