とあるいち聖書ライターのブログ

聖書からヒントを得て

先入観にとらわれない聖書解釈のもと、

聖書に興味がある方に見てもらうためのブログ

神である主にある救い

沖縄のみならず、


日本で今問題になっているのは、


若者の貧困や、


子供へのDV問題、


いじめ、


など、経済格差による、


貧しさが生み出す、


闇問題です。


そもそも、なぜ人はいじめられたり、


貧困に陥ったりするのか、


聖書で言う、救いとは、この世の中で、


苦しみがあろうと、神様を信じることで、


天国が約束されていることを意味します。

最近、ある番組を拝見したのですが、日本の都会などの今の中年のビジネスマンは、

高収入、定収入、関係なく、

街中で、靴磨きのサービスをするワークスタイルに需要が高まってきているようです。靴を磨く、私も子供の頃は、よく汚れた靴を手洗いしたり、父親のビジネス靴を母の使えなくなった破れたストッキングを縛り丸めてピカピカに磨いたものです。しかし、何故、他人に靴を磨いてもらうサービスに良さを感じる人々がいるのでしょう。


それは、聖書にもあります。キリストは自ら弟子たちの足を洗い、仕えるということを教えたのです。

ビジネスマンは日頃の疲れを癒すサービスに靴磨きを選択するというのは、ビジネスマンである特権を感じるのかもしれませんが、キリストは互いに足を洗い合うということを教えているように、靴を磨いてもらうなら、それなりのサービスを提供する事が大切だと言うのです。これは、基本、靴磨きの商売であり、賃金を支払うというサービスを靴磨きをする人に支払っているわけです。苦痛のあるような仕事だからこそ、苦痛を癒すためのサービスが必要なのかもしれません。聖書の時代、イスラエルやクリスチャンは、家が悪く、受け入れない家などがあれば、足のゴミを払い落とすという習慣がありましたが、これは、一つの神様の作品である自分たちの罪や役不足を認め心の汚れを払い落とし、身を戒め清めるという意味合いがあるように思えます。

神様の面前など聖なる場所では、神は履き物を脱ぎさいなどとあるのは、

神はチリで人間を造られたと聖書にあるように、神の前では、裸足であれ害はないと言えます。


日本の風習では、和室では履き物を履かない風習があったりするのは、もしかすると聖書からきているのかもしれません。


履き物は、足を守るための大切なものです。


靴が痛みやすい仕事をしている人ほど、丈夫な汚れにくいシューズが必要なのかもしれません。


「確かに、もろもろの丘も、山の騒ぎも、偽りでした。確かに、私たちの神、主に、イスラエルの救いがあります。」

(エレミヤ書3:23)