とあるいち聖書ライターのブログ

聖書からヒントを得て

先入観にとらわれない聖書解釈のもと、

聖書に興味がある方に見てもらうためのブログ

デモンストレーションとリアリティ

よく罪深くある事が格好いい。


なんて、教会に通う以前の学生時代までは、勘違いしていたものです。


世間は悪が勝つという常識の中を生きてきた人生から、

教会に通うと、


それが、ことごとく覆される現実にちょくめんする

ということがあるのです。


なぜでしょう?


聖書で、古い自分に死ぬということを神により経験します。


しかし、たとえ変わったように見えてもその人の基本的な人格までは変わらないということが言えます。


神様を信じる以前、敢えて一番に恐ろしそうな、ホラー映画などを見てたりしましたが、あの時の印象は、対してなんとも思いませんでした。


良心が麻痺していたのかもしれません。


教会に通い、洗礼を受け、


自分がどれだけ闇の中にいたのかを知りました。


悪を超越する神の存在を認めざるを得ない状況があったのです。


聖書では、ある教会では、一つの元の原理が悪=神、神=悪といったような、

原理を確信しているような教会があります。


しかし、人間に神を解き明かせるなら、それは神ではないと言えます。


神は、旧約聖書では、われわれと表現したりするように、多くの神々を味方につけた人々が世界を支配しているような原理が存在します。


しかし、根本的なところで、その聖書信仰の意味を理解している人々たちと接した時、


一致の上に自由な個の力を共に活かし合えることが成り立つチームワークほど、強いものはないと知るのです。


日本では、一休さんのように、一つのことばのメッセージで、人を惹きつけようとする教会などもあります。


しかし、少し古いやり方の時の教会などは、信徒との会話が成立する礼拝メッセージが存在していたのです。


基本的にコミュニケーションは一方通行では成り立ちません。


神は人間との人格的な交流を望んでいるという牧師もいます。


今のSNSやインターネットの世界などは、発信したメッセージに対して評価やコメントなどがあります。


しかし、これは文字であり、


体験するには限界があると言えるのです。

何かの媒体で、

入ってくる情報以上に、


実際に接して体験して得た情報の方がより確かと言えるのです。


聖書には、「ことばは神であった。」


とありますが、


「文字は殺し」「御霊は活かす」


とあり、


神の御性質には、ことばにあるのではなく、力にあると、聖書にあることは、

間違いのない事実であるということです。